風景地獄−とある私的な博物館構想
2016年6月23日 – 12:10 AM

03_0000
東京の「風景」をテーマにしたカオス*ラウンジの新作展を開催します。近年、東京を離れ福島や瀬戸内などの地方で発表することの多かったカオス*ラウンジですが、江東区大島の街中に建つ、とある私的な「東京大空襲記念館」との出会いをきっかけに本展の構想が生まれました。森ビルの展望台「東京シティビュー」から望む東京の「メガランドスケープ=超風景」と、東京という場所が保持しているミクロな記憶を組み合わせ、新しい風景を描こうと試みます。それは、風景そのものが場所の記憶を格納し、私たちが読み込むことによって記憶を再生したり、新たに書き込むこともできるような、一種の博物館として構想されているのです。2015年に福島県いわき市で開催して話題を呼んだ『カオス*ラウンジ新芸術祭2015 市街劇「怒りの日」』から、出品作家として参加している『瀬戸内国際芸術祭2016』での大規模インスタレーションから引き続き、場所性や記憶の問題を問い直す新作展です。

 

キュレーション・会場構成:
黒瀬陽平

参加作家:
荒木佑介 / 梅沢和木 / 乙うたろう / KOURYOU / 酒井貴史 / 藤城嘘 / 松本しげる / 柳本悠花 / 山内祥太

 

会期:
2016年6月24日(金)〜7月10日(日) ※会期中無休 入場無料
OPEN 12:00-20:00

オープニングパーティ
6月24日(金)18:00-20:00

会場:
ROPPONGI HILLS A/D GALLERY
(東京都港区六本木6-10-1 六本木ヒルズ ウエストウォーク3階 六本木ヒルズ アート&デザインストア内)

 

~~~

 

展覧会ステイトメントにかえて

黒瀬陽平

とある風変わりな「博物館」の話をする。

ぼくはその博物館の存在を、ぼくのトークショーに観客として来ていたYさんから教えてもらった。初対面だったが、偶然トークショーの帰りの電車が同じになり、立ち話をしながら時間を潰すことになった。ぼくの出演するようなマニアックなトークショーに来てくれているだけあって話は弾み、少しずつお互いの話題の引き出しを開けて見せ合うような、そんな雰囲気になった。そこでYさんの方から「そういえば……」と、その博物館の話題になったのである。
Yさんの話によれば、かつて銭湯だった建物をおじいさんが一人で改装し、東京大空襲の資料を展示する博物館をやっている、とのこと。場所は都営新宿線の東大島駅の周辺だという。なるほど、たしかにあの一帯は、1945年3月10日の大空襲で壊滅的な被害を受けた場所であり、近くには戦災資料センターもある。すぐにスマホを取り出し「東大島 空襲 博物館」と検索してみたが、それらしいページはヒットしない。検索ワードを細かく変えながらようやく見つけたと思ったら、Yさんのフェイスブックのエントリーだった。
ぼくはますます興味をそそられた。Yさんから以外の一切の情報が無いために、ぼくのなかで博物館のイメージは肥大していった。きっと、外観は東大島の下町にひっそりとたたずむ昔ながらの銭湯で、中に入れば、かつて大浴場や脱衣室だった空間に、空襲関係の資料が所狭しと並べられているのだろう……などと勝手に想像し、期待を膨らませた。Yさんに詳しい場所を聞いてみたが、Yさんも人から教えてもらって外観を見ただけらしく、場所の記憶などが曖昧だと言う。とにかく、東大島駅近辺にあるということは確かなようだ。地図で見るかぎり、歩きまわって探せば見つけられそうな下町である。近いうちに必ず探しに行こう、と決めた。

後日、ぼくはアーティストをひとり誘って、謎の「博物館」を探しに出かけた。Yさんからの情報を頼りに、東大島駅で下車して周辺を歩きまわった。しかし、まったく見つからなかった。東大島の商店街に入り、昔から続いていそうな店を見つけては尋ねてまわったが、博物館のことを知っている人はひとりもいない。あげくに「このへんに銭湯はないよ」と言われ、銭湯のある地区を教えられるという有り様だった。
東大島駅周辺、と呼べるエリアは隈なく歩いてまわったが、まったく見つかる気配がない。銭湯を改装した個人経営の博物館なら、いくらひっそり建っているとしても、地元の人は知っているだろうと踏んでいたが、そうではないようだ。
ぼくたちは2時間以上、博物館を探して歩きまわった。東大島から大島、西大島エリアまで、道行く人に尋ねながら探し歩いたが、一向に見つからなかった。あまりにも見つからないので、フェイスブックでYさんに報告すると、仕事終わりのYさんが駆けつけてくれ、結局3人で探すことになった。しかしそれでもなかなか見つからない。もう日は暮れかけていた。

Yさんのかすかな記憶をたどりながら、さらに1時間ほど歩きまわって博物館はようやく見つかった。博物館は東大島ではなく、大島駅のすぐ近くの、メインストリートを一本入ったところにあった。1階部分がガラス張りで、まるでリサイクルショップのように大量のモノが陳列されている。モノは軒下にまで溢れ出てきており、その中に「東京大空襲資料館」と書かれた看板が立ててあった。
こんなわかりやすい場所にあるのに、なぜぼくたちは3時間以上も探しまわっていたのか、そしてそもそも、なぜこれまで尋ねた地元の住民たちは誰も、この博物館の存在を知らなかったのか。
博物館の主は、「ミウラさん」という初老の男性だった。ミウラさんはとても親切にぼくたちを案内してくれ、この博物館のことを説明してくれた。そして、ぼくたちが大きな勘違いをしていたことに気がついたのだ。それは、ぼくたちがここを「銭湯を改装した博物館」だと思い込んでいた、ということだった。
事の真相はこうだ。ミウラさんのお父さんは戦前から、この場所で銭湯を経営していた。この辺り一帯でも一番大きな銭湯だったそうで、ずいぶん繁盛していたという。しかし戦争が始まり、あの大空襲がやってきた。あたりは火の海となり、ミウラさん一家も命からがら逃げた。アメリカ軍によって綿密に計算された焼夷弾による空襲は、当時ほとんどが木造建築だった街並みを焼き尽くしたが、唯一、ミウラさんの家の銭湯の一部が焼け残った。それは、風呂の水を貯めておくためにコンクリートで作られた貯水槽だった。その後、銭湯は廃業し、再建されることはなかったが、ミウラさんは東京大空襲の記憶を語り継ぐために、焼け残った貯水槽の内部と、貯水槽に隣接するように建てた家の1階を「博物館」として公開したのだ。
つまり、ここは「銭湯」ではなく、空襲で燃えた銭湯の一部、戦災遺構だったのだ。ぼくたちは、頭のなかで、「銭湯を改装した博物館」が大島の下町にひっそりと建っている風景を作り上げ、その風景を探しまわっていた。しかし、ここは空襲によってすでに銭湯ではなくなっていたのであって、当然、付近に住んでいる人たちにとっても、ここが銭湯であるという認識は無い。地元の住民にいくら尋ねてもキョトンとされたのは、こういうことだったのだ。ぼくたちは、自分たちの勘違いと無知によって勝手に作り上げた想像の風景と、現実の大島の風景の隙間に迷い込み、3時間近くも歩き回っていたのである。

しかし、よく考えてみれば、ぼくたちの間抜けな勘違いにもそれなりの意味はあるような気もする。東京大空襲の記憶を直接伝える資料や遺構が極めて少ないことはよく知られている。戦前、戦中からの報道規制や、GHQによる関連資料の提出命令など、政治的な理由によって抹消されたということもあるが、遺構が残っていないという点に関しては、東京が都市であるということが最大の理由だろう。空襲によって焼け野原になった東京は、再びすべてが新しくなり、残されていた遺構も、今やことごとく作り直されてしまっている。広島の「原爆ドーム」のような遺構を持たない東京の風景には、かつての戦争の痕跡は極めてわかりにくい形でしか残されていない。
だから、大島にある東京大空襲の博物館、と聞いても、まさか戦災遺構がそのまま博物館になっているとは思いもしなかった。当時の建築物のなかで、下町にありながらも焼け残る可能性があるのは銭湯の貯水槽である、ということも、よくよく考えれば想像できたはずだ。しかしぼくたちは、そのように直接、戦争の痕跡が刻み込まれた東京の風景を思い浮かべる想像力を持ち合わせていなかった。東京大空襲で炎に包まれ、なにもかもが焼き尽くされてしまった東京は、まさに地獄絵図だったと被災者の証言は語る。しかし、その地獄のようだった戦災の記憶や痕跡がほとんど残されることなく、すっかり新しい風景に書き換えられてしまうこともまた、もうひとつの地獄絵図であるに違いない。

その後ぼくは、アーティストたちを連れて、何度かミウラさんのところに通った。ミウラさんの博物館には、空襲とは全く関係のない絵画や骨董品なども大量に展示されている。ミウラさんは実に様々なモノの収集家でもあり、戦災資料に混じって彼のコレクションが展示されているのだ。かつての戦災の痕跡である遺構とそれに関連する資料を展示するだけでなく、ある意味それを口実にして関係ないものまで「展示」してしまおうとするミウラさんの考えに、ぼくは心底共感した。
そして今回の展示のプランを思いつき、この博物館を会場として使わせて欲しいと打ち明けた。しかしいくつかの理由により、それは叶わなかった。それは仕方のない理由だったし、東京のような都市で、このような展示を成功させることの困難さを象徴するような事情だったが、そのことについてはまた別の機会に語ることにしよう。ぼくは、せめてこの場所が確かに現実に存在するのだということを示すために、「東京大空襲資料館」の看板をギャラリーに展示させて欲しいとお願いし、ミウラさんは快諾してくれた。
ミウラさんの博物館を展示会場にできなかったかわりに、博物館の外観と内部を3Dスキャンし、スキャンしたデータを使ってインスタレーションを組み立てた(山内祥太《秘密の部屋》)。3Dデータをもう一度平面のイメージとして出力しているため、あちこちに歪みや穴が生じ、それを無理やりツギハギした。その場を動かすことができない遺構を、無理やり関係のないギャラリーへ持ち込もうとしているのだから、これくらい歪んだイメージになるのはむしろ当然だろう。結果、穴だらけであちこちが傾いたハリボテの博物館は、まるで被災してしまったかのようになってしまった。

ぼくたちが組み立てた博物館は不完全だ。この展示を見たみなさんは、どうか、大島にあるミウラさんの博物館を実際に訪ねてみてほしい。でも、ここに住所を書くことはしない。ネット上にも情報はない(ひとつだけ、この博物館を訪れたレポを載せている個人ブログがあったが、そのブログが書いていた住所は間違っていた)。ぼくたちがそうしたように、頭のなかに思い浮かべた「博物館のある風景」を頼りに、大島駅周辺を探索してほしい。そして、ミウラさんの博物館にたどり着くことができたら、そこでこの展示ははじめて完結する。