イベント「お絵かきオフ*ラジカルナイト」「カオス*アンサンブル」
2012年8月28日 – 2:05 AM

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阿佐ヶ谷ザムザで開催中の「受け入れ展」にて、2つのスペシャルイベントを緊急開催!

「お絵かきオフ*ラジカルナイト」

8月28日(火) 19:00ごろから終電まで 入場無料
カオス*ラウンジ恒例の「お絵かきオフ」をザムザ阿佐ヶ谷の劇場空間で。飛び入り歓迎。

「カオス*アンサンブル」

8月31日(金) 19:00~23:00 入場チャージ:500円(ワンドリンク)
「受け入れ展」最終日のクロージングとして開催されるのは、仲山ひふみプロデュースの音楽イベント。

楽器やPC、その他音が出そうなものはなんでも使っての集団即興演奏に加え、お絵かきオフや野良VJなど、当日飛び入り参加大歓迎の謎イベント。
参加予定者:

仲山ひふみ(主に鍵盤)

建設中(nnnnnnnnnnnほか二人、DJ)

涌井智仁(http://tensai-h-s.jugem.jp/?eid=38

iserobin

ムサビノイズ研究会

梅沢和木(音ゲー)

藤城嘘(絵画)

追加出演者:黒瀬陽平(撤収作業)

カオス*アンサンブル。以前行った展示会場での複数人での即興演奏が、予想以上の効果を上げたので、メンバーを変えて再び大規模かつ長時間の即興的な音楽パフォーマンスを行おうというのが趣旨。とはいえ、単なる即興ライブというものでもなく、裏にそれなりに理論的な思考が関わっている。それは「複数人での即興演奏を仮想的に、一種のカオスパッドの操作に見立てることはできないか」という仮説を実演において実験するというものである。
シンセサイザーやキーボードなどの電子楽器メーカーとしておなじみのKORG社が、1999年に開発したエフェクター”KAOSS PAD(カオスパッド)”は、その独特なインターフェースとそれがもたらす音響効果のユニークさから、現在多くの音楽家に愛用され、その名を知られている。本体中心部にすえられた四角形のタッチパネルには、x軸とy軸それぞれにエフェクターのパラメーターが振られており、ユーザーが指を触れ、動かすことにより、音の質を直感的かつダイナミックに操作できるのだ。この身体的かつ平面的な音響操作の方法は、例えばアップル社の製品に代表される現在の情報端末機器のデザインコンセプトと呼応するものであり、実際ipad用のKAOSS PADと言えるものもあらわれつつあるという。そのようなわけでKAOSS PADという楽器は、現在の情報環境における音楽制作・消費のある位相を明確に示唆していると考えられる。そこには音=時間の質を生むものとしてのエフェクターをブラックボックスとして放置せず、インターフェースたる平面上で可視化し、より(無)意識的に操作可能にしようとする態度が根本的に含まれているのだ。タブレット端末という言葉が、絵画が描かれる平面を指すタブローと同じ根を持つ語であることを考えれば、KAOSS PADの設計思想に「音楽の絵画化」という20世紀の夢の一つが含まれているということはもはや疑い容れなくなる。
このように考えていくとKAOSS PADの本質は、おもちゃのような見た目とそこから生み出されるカオティックないしトリッキーな音色そのものよりも、平面の上に展開された音色やリズムのイメージが、自身の身体の延長線上で変化すること、そのような音=時間の可視化と身体化の同時進行を生み出すことにあるのだと思えてくる。可視性と操作性を同時に提供するあの平面こそが、音の持つ時間的な側面に対し、身体化と視覚化の契機を与えることになる。ところでKAOSS PADが音をそれが何であれ身体化して扱うためのものであるとするなら、KAOSS PADによる変調を受けた音が自分のものか他人のものかはさして重要でないという心理的事実をも導けるだろう。通常のエフェクターによって変調された音の場合は、原音のアイデンティティ(自分のものか他人のものか)にエフェクターのキャラクターが多少覆い被さるものの、原音のプロパティはあくまで尊重され続けるが、変調そのものに運動が加えられ、その過程でユーザーの身体性や視覚的意図が介入してくるKAOSS PADの場合には、原音のプロパティは変調自体の運動性の前で後退していき、最終的には消滅することになるのだ。この奇妙なユーザーインターフェースは、したがって単なるエフェクターとは異なる志向性を持っている。それは、自分の音や他人の音といった、誰かが所有可能な音を前提することも目的化することが無い。そこには結局、ただ自身の身体が接触し、関係を持つものとしての環境があるだけなのだ。環境とはすなわち、環境としての音にほかならない。また、この環境に本質的に潜む危険なる混沌を切り抜けるためにこそ、パラメーターが可視化される場としての平面、すなわちインターフェース(界面)による間接化が必要となる。
即興演奏、特になんら音楽的イディオムを共有しない集団での即興演奏を行う場合には、KAOSS PADが示す組織化のモデルは非常に有効であるように思える。KAOSS PADはそのデザインのレベルにおいて、音が誰によって誰に向けてどう鳴らされるかということを問題にせず、ただ音が組織化されることを、すなわち平面とそれを介した身体の延長線上で組織化されることだけを問題にしているのだ。音楽的イディオムという既成のモデルないしコードへの回収が、他の音楽的イディオムに属す人々にとって陳腐さという以上の印象を残さなくなった現代において、どうやって異なるイディオムを持ったもの同士が音を同時に同じ場で鳴らせるかという問題。それは音楽の文脈において変形されたポストモダンの公共性の問いであり、さらには近年のネット・コミュニケーション論で取り上げられる同期性の問題でもあるだろう。しかし、何のことはない、周りで鳴っている音を受け入れることが著しく難しいのであれば、単にそれを環境として捉えなおせばいいだけなのだ。そしてその環境をインターフェース(界面)すなわち平面上でマッピングし、身体的に「のりきれる」ようにしてしまえばいい。KAOSS PADはこのような新鮮で解放的な視点から即興音楽を再び解釈する可能性を提供してくれた。この視点はiPadやiPhoneなどの非音楽的でより日用的な目的を担った情報端末の思想と通じているし、最終的には現在の(あるいは少し前までの)ネット・カルチャー全般にあふれている、多元的でカオティックでどこか祝祭的な雰囲気とも少なからず通じ合っていたのだ。
ところで音楽的イディオムを拒絶した演奏行為ということでは、前衛的ギタリストであるデレク・ベイリーのそれが音楽史的に有名だ。彼が影響を受けたであろう考え方の一つに、ジョン・ケージがかつて示した「演奏者が互いの音を聴かない即興」というモデルがあった。コール&レスポンスに代表されるように、よい音楽ひいてはよい演奏には、演奏者が相互に聴きあい、よく配慮しあった上でのデリベレイティヴ(熟議的)な音のやり取りが必要であるという考え方が一般的に存在するが、ケージがかつてフリー・ジャズのミュージシャン達に示した方法はその常識と全く相反するものであった。お互いの音が聴こえないかのようにして、それぞれが独立して自分のパートを演奏するのである。これは偶然性による音楽を試み始めてからのケージが、既存の音楽において各パートの同期性が無批判に前提されていることを逆説的に発見したことからきたアイデアだと考えられている。各パートないし演奏者という関係を一人の人間の中に圧縮し、音の前後のつながりをコール&レスポンスの最小単位とみなしたとき、イディオムを拒絶した即興の意味も理解され始める。そこでは、演奏を構成する各音の時間的関係が完全に消滅させられなければならないのだ。平たく言えばまったくランダムにしか感じられないような音の列を演奏すること。そこには特定のイディオム=共同体が普遍的なるものとしての即興演奏の中心へと侵入することを防ぐためのアイロニカルな努力があり、これまた極めてポストモダン的かつリベラリズム的な問題が発生しているのだといえるだろう。だがベイリーの即興は最終的な判断の審級として自身の耳をおく限りにおいて、いまだ真の多元性には至っていない。「聴かない」という蛮勇をもってして始めてケージ的な多元性を音楽のうちに導きいれることができるのだ。KAOSS PAD的な組織はどちらかといえば後者、つまりケージが示したような聴かないことによる組織化と非常に近い場所にいる。
さて、では実際に会場でどのように演奏を組織化すればよいのか考えてみよう。言うまでもなく、それぞれの演奏者は他の演奏者をコントロールするためのKAOSS PADを所持しているわけではない。そんなものが存在するなら、オーケストラ指揮者はタクトを振らなくなるだろう。ではタクトのような視覚的なサインでもってお互いがお互いの音をコントロールするのかといえば、これも違う。私たちは既に展示空間という場を与えられており、そこには平面が既にいくつも存在する。絵画作品の表面、立体作品の表面、壁、天井、それに私たちが立っている床という平面。それらの平面を自由に解釈すること、すなわち、それらに自由にパラメーターを割り振ってみること。KAOSS PADが、パラメーターを合理的に組み合わせて特定の音を作ることというより、音を材料にして、平面上での身体的な運動を発現させ、それを混沌とした環境へとフィードバックさせることを目指していたことを思い出そう。パラメーターの設定は意識的である必要はなく、あたかもパラメーターが存在するかのように振舞えばいいのだ。時には、音そのものを操作のための動きとして用いてもいいだろう。環境としての音を操作するための、鳥のさえずりのごとき音である。演奏者はそれぞれ自分の音で音楽を纏め上げようとするのではなく、自分の音で環境の音を操作し、それを「のりきれる」ようにしてしまえばいいのだ。恐らくそのような即興演奏のイメージを持つにはKAOSS PADのイメージを持っていることが極めて重要になる。だからこの音楽イベントで実験される仮説には、最初からKAOSS PADの名が含まれていたのだ。(仲山ひふみ)

みなさんどうぞお誘い合わせの上ご来場下さいませ!
会場でのスタッフの指示を守ってくれれば画材・素材・パーティグッズ・その他面白いものなどの持ち込みも自由です。
どうぞよろしくお願いいたします。