GUIDE:3:鬼の家

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第3会場「鬼の家」

 

第3会場は、立派な「オーテ(大手)」のある庭付きの古民家です。オーテは、冬場の女木島に吹きつける「オトシ」という季節風から家を守るため、海岸沿いの民家に築かれる石垣です。オーテには、黄色っぽい花崗岩と黒っぽい安山岩が使われていますが、花崗岩は女木島では取れないため、他の島から運んできたものです。女木の風物詩となっているオーテも、他所から運び込まれた石で作られている、というのはいかにも女木らしい話です。

 

第1会場の「洞窟」、第2会場の「記念館」に対して、第3会場は鬼がそこに住み続けている「家」です。ここでは「鬼=他者」の痕跡や記録、存在を観察するというより、彼らの生活や文化のなかに入り込み、鬼の視点になって見ることができるよう構成されています。

 

画家の梅津庸一は、古民家の内装をあえて覆い隠すようにリノベーションし、サナトリウムのような、病室のような展示室をつくりました。しかし、そこで療養してるのは人間ではなく「絵画」です。これまで、日本近代絵画の問い直しをライフワークとしてきた梅津は今回、「洋画」を鬼に見立てました。明治期に西洋美術を輸入した日本美術が、それらを取り込もうと慌てて生み出した「洋画」という不思議なジャンル。それはまさに、他所からやってきて、この地に住みつくことによって奇形化した「鬼=他者」であると言えます。しかしご存知のように、あまりに人工的につくられた洋画というジャンルは、戦後に入って急速に衰え、もはやほとんど風前の灯となりました。梅津は、そのような衰退してゆく洋画の現状を、風土病を患った鬼、老衰した他者であると考え、彼らが療養するため、あるいは介護を受けるための部屋を作ったのです。

 

梅沢和木は、部屋全体を自身の絵画手法によって作品化しています。もともと梅沢は、インターネット上で収集した画像を大量にデジタルコラージュする制作スタイルをとっていました。今回、それらのデジタルコラージュに加え、廃墟になっていた民家に残されていた農具や古道具、古新聞なども同じように「素材」として作品に取り込んでいます。部屋の土壁と一体化したデジタルコラージュを見ると、梅沢の作品のなかではもはや、デジタルとアナログ、情報と物質の垣根は取り払われ、収集できるものはすべて等価にコラージュしているようです。梅沢は、この民家の時間的、物質的蓄積の上に、自分の収集したデータの蓄積を重ねあわせます。そこでは、一般的な絵画制作されているような美的な取捨選択はほとんどなされず、収集と展開こそがすべてであるように見えます。収集されているもののほとんどは、ごく身近にある、ありふれたものばかりですが、それらが美的、合理的に取捨選択されず、大きな塊となって私たちを取り囲む時、見慣れぬイメージとなって立ち現れてきます。

 

そして最後は、梅田裕による庭園作品《いりふねでぶね》です。オーテから庭全体を使って構成されたこの作品は、もはや遺跡と呼ぶべき規模になっています。浄土庭園が専門の梅田は「入船出船」をモチーフに、浄土へと向かう出船、宝をのせて帰ってくる入船を庭に配置しますが、注目すべきは、地下に作られた大きな石室です。階段を降りて中を覗くと、石室内はなんと池になっており、船が浮かんでいます。この石室は「鬼の古墳」であり、みなさんが第1会場から第2会場の間に見た「円山古墳」の現代版でもあります(古墳は、円山古墳とまったく同じ向きに作られています)。円山古墳が古墳時代に、国家権力とも共同体とも関係なく、女木の島民と大陸の人間の個人的な関係によって作られたように、梅田の古墳もまったくプライベートに、過去から現在までの無数の「鬼=他者」たちに捧げられているのです。しかしいま、古墳のある庭園は雑草が生い茂り、石室への入り口は閉ざされています。

 

実は、2016年6月23日に女木島は豪雨に襲われ、円山古墳の近くにある溜池が決壊して、大量の水が集落へ流れ込みました。いくつかの家屋が床下浸水し(第二会場も床下浸水し、その復旧作業の過程でいくつかの展示を変更せざるを得ませんでした)、その影響で石室は水で溢れてしまいました。現在も水位は下がりきらず、船への飛び石にすら水面の下に沈んでいます。洞窟では作品がカビやキノコにまみれたように、そして、円山古墳がいまでは雑草に覆われ誰も顧みないように、わたしたちの作品もまた、かつての「鬼=他者」と同じように忘れ去られてしまうのでしょうか。

 

物語は秋会期へ続きます......

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11 梅津庸一《病気になった絵画、あるいは在宅介護》

12 梅沢和木《BOSS ON PARADE》

13 梅田裕《いりふねでぶね》

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